歴史

はじめに

昭和20年10月、終戦の混乱で国中がごったがえし、食糧不足は深刻をきわめていました。
千葉県のほぼ中央に位置する下志津原は、数ヶ月前で旧陸軍の野砲連隊の演習他でした。この地も戦争が終わると同時に、食糧増産のため開拓のクワが入れられました。約2,400ヘクタールの原野に復員開拓者がぞくぞくと入植しました。この開拓者の中に少年ばかり百数十名の一団がありました。この一団は下志津原開拓本部の要請で、茨城県の内原から開拓の援農に来た満蒙開拓青少年義友軍内原訓練所基幹学校の生徒たちでした。戦争が続いていれば、満州へ渡って開拓の先頭に立つ人々でした。 指導者の高井篤先生にも引きつけられた少年たちは、まだ14~17才の童顔でありました。かつての練兵場を60年後の今日に導いた人々にこの少年の一団もあったのです。入植当初、若い彼らに正式な入植資格はありませんでした。したがって生活も仕事もすべて共同で行いながら、他の入植者の手助けをしていたのです。
昭和23年、彼らに入植の資格が与えられると、まもなく開拓農協(鹿放ヶ丘農苑開拓農業協同組合)を設立し、固い団結で257ヘクタールにおよぶ鹿放ヶ丘の開拓を進めていきました。
そして昭和26年、メンバーは結婚適齢期をむかえ、結婚したものから個人経営に発展していきました。組合員一戸の耕地は1.5ヘクタール、開拓地に水田はなく畑だけ。耕地の増減もなく、全組合員が同じ面積を耕していました。ただ経営はそれぞれ異なり、酪農、養鶏などの畜産や落下生、野菜中心の畑作でしめていました。
現在、鹿放ヶ丘農苑開拓農協は解散し、千葉みらい農業協同組合となっていますが、鹿放ヶ丘の旧組合員は、全員がかつては寝食をともにしてきた人ばかりであり、いわば兄弟以上の間柄といっても過言でありません。特別な事情を除いては一人として脱落したものはなく、今日も専業農家として充実した日を送っています。

鹿放ヶ丘地区の主なあゆみ

昭和20年 太平洋戦争終結(終戦)。下志津原開拓団結成。満蒙開拓青少年義勇軍訓練所・基幹学校の生徒が開拓団の援農のため茨城県から到着、報徳農工補導所を設立。
21年 開拓団から独立。地区内の開墾を始める。
22年 地区名を鹿放ヶ丘(ろっぽうがおか)と命名。鹿放ヶ丘農事実行組合を設立。(補導所は解散)
23年 四街道宿舎(現敬愛高校含)を中学校にするため、開拓地の共同宿舎に引越しし、ランプ生活に入る。鹿放ヶ丘農苑開拓農業協同組合を創立。(実行組合は解散)
24年 製パン、製麺、製菓の加工を始める。(鹿のマークの使用始まる)
26年 共同経営から個人経営に移りはじめる。
28年 3月に電気が導入され、ランプ生活終了す。第1回開拓入植まつりを行う。
30年 開拓10年を祝い、鹿放ヶ丘神社を建てる。
31年 鹿放ヶ丘納骨堂を建立、後にその周辺が個人墓地となった。
32年 季節託児所を開設し、お母さん方が交代で面倒をみる。
35年 鹿放ヶ丘グランドが下志津自衛隊のブルドーザーで造成される。
40年 鹿放ヶ丘開拓農協が、朝日新聞社の朝日農業賞を受賞。乳牛、豚、鶏等に感謝するために畜魂碑を建てる。鹿放ヶ丘青年館が完成。(平成6年に取りこわし)
44年 農協事務所、倉庫等の共同施設を緑ヶ丘から鹿放ヶ丘に移す。
45年 鹿放ヶ丘開拓25周年式典を行い、鹿放ヶ丘開拓誌を発行した。
46年 東関東自動車道が鹿放ヶ丘開拓地を貫通した。
50年 大日分校が大日小学校に昇格し、鹿放ヶ丘区は大日学校区となった。それまでは四街道学区であった。
51年 鹿放ヶ丘開拓農協が、農林大臣賞を受賞した。四街道町営水道が各戸に配管される。
52年 プロパンガスに替わって、東京ガスが各家庭に引かれる。
57年 鹿放ヶ丘グランドにおいて、第1回どんど焼を行う。
60年 開拓40周年記念として、「想い出のアルバム」を作る。
62年 鹿放ヶ丘区の旗を作成。
平成元年 お年寄りの集まりとして、「桜寿会」を25名で設立する。
3年 鹿放ヶ丘農協が四街道市農協と合併するため、そのあとの地域振興と親睦のために「鹿放ヶ丘農苑拓友会」を創立する。鹿放ヶ丘農協は12月で解散した。
7年 四街道市鹿放ヶ丘ふれあいセンターが完成、5月から供用を開始した。10月に鹿放ヶ丘開拓50周年記念式典をふれあいセンターで行い、50年誌“拓く”を発刊した。

開拓の指導者

鹿放ヶ丘開拓の指導者は、戦前の農村・農民の指導者であった元義勇軍訓練所長の加藤完治先生を頂点とし、訓練生を引率して生徒達と共に自らが開拓者となった元教官の高井篤、加倉井正及び安達増三の三先生でありました。この三人の先生方は、総括、企画及び会計を受持ち、それぞれ見事にその役割を果たされました。資料室には、高井先生のコーナーが設けらております。

地名のいわれ

昭和22年6月、共同宿舎の建設にあたり、開拓予定地区の名称を自治会で公募しました。結局、その中にはなかった「鹿放ヶ丘」が採用されました。これは、この地区が江戸時代以降“六方野”と称していたことと、六方野から小金野にかけて、鹿狩りが行われていたことにちなみ、鹿放(ろっぽう)ではどうかとの案が出され、中心地の大日権現岡(通称大日山)の“岡”から囲みのない“丘”が採用されて、「鹿放ヶ丘(ろっぽうがおか)」と命名されました。今では、住宅団地でのこの“丘”が使われておりますが、その当時では大変珍しがられたものでした。

自分達の家造り

住宅や家畜小屋などを作るには、材料やお金と手間が必要で、本職の大工さんを頼める状況ではなく、満州(中国北東部)からの引揚げ者である建築技術者を中心に十数名の建築班によって個人住宅を作りました。木工機械を買入れ、建具の製作も始めましたが、住宅の造りは、木造の杉皮葺、土壁又は板壁で、面積が8.75坪、屋外便所は0.66坪の面積で極めて簡素なものでありました。

開拓組合(開拓農業協同組合)

農事実行組合は、昭和22年に農協法が施行され、翌年7月鹿放ヶ丘農苑開拓農協が設立したため、解散しました。開拓組合のはじめの仕事は、国の資金の借入れや肥料・飼料の配給を受けるためのものでありましたが、順次、組合員のお金を預かったり、貸したりするようになりました。そのうえ、パン、うどん、そば、菓子も作り、町の小売商店に卸したりしました。また、組合員の経営指導、生産物の販売並びに資材の購入も徐々に増え、運搬からトラクターによる農作業も引き受けるようになり、仕事も多岐にわたってきました。

文化誌の発行

当時、青春時代であった10代後半から20才代前半の鹿放ヶ丘開拓者有志により、昭和24年から28年まで文化誌が発行されました。ある時は迷い、ある時はセンチになりながら芸術にはほど遠い、詩や歌をうたい、小説果ては論文まで、編集者は会費が集まらないのを嘆きながら、ガリ版刷りで発行されたものでした。

鉛玉と砲弾

開拓地の中心に通称大日山がありました。山というより岡のように小高いので、野砲の実弾射撃による着弾標的地とされ、明治以来実弾が多く打ち込まれました。この廃弾が特に終戦後に貴重なものとなり、昭和25年の朝鮮戦争時の“金へん景気”は大変なもので、小遣いといわず開拓者の生活費となり、大いに助かったものでした。この開拓地内には、「トーチカ」と呼ばれる着弾監視壕が3か所ありました。

農業と自然災害

下志津原の開拓地は、北海道から沖縄まで全国の開拓地のうち、地理的にも地形的にも恵まれていましたが、陸軍の練習地となったことを思うと、必ずしも農業用地として適していたとはいえませんでした。一見、平坦に見えても雨が降り続くと作物が水につかり、降らないと旱害が発生し、強風や台風で建物が壊れ、作物は飛ばされ、初期の開拓は困難を極めました。これらの災害を克服するために、松を植え防風林としたり、共同で深井戸を掘り飲料水や畑の灌漑施設を設け、更に、水溜りを無くするために排水路を作りました。これに費やすお金と労力は、膨大なものでした。今でも、風と水により被害はなくなっておりません。

生活と生活用品

昭和26年に個人経営に移るまでの6年余りは、義勇軍訓練所の延長にようなもので、寝食ともに共同経営でした。電灯は、昭和28年3月から供用され、それ以前はランプ生活でした。当時の楽しみの一つであったラジオ放送は、鉱石ラジオで聞いておりました。展示品のうち、柳行李(やなぎこうり)、飯盒(はんごう)、水筒(すいとう)やゲートル、雑のうなどは主に訓練所時代のもので、その後も引き続き使い、釣瓶(つるべ)、吸上ポンプ、うす、きね、羽釜(はがま)、あんか、たらい等は個人生活になってからのものです。大釜(おおがま)は、共同炊事場で御飯を炊いたものです。

生産と生産用具

共同経営から個人経営に移っても、道路の補修、防風林の消毒、落花生の脱殻などの共同作業は続けられました。昭和26年からは、結婚するものか増え始めましたが、1.5ヘクタールの経営面積では、労働力不足は解消されませんでした。開墾は、鍬から馬耕に切り替え、更に野砲牽引車(やほうけんいんしゃ)によって行われて能率が上がったものの、栽培、管理、収穫用機械を求める声が強く、有志によってドイツ製トラクター(ホルダー)を導入したものを皮切りに農業の機械化が進みました。小さな機械(テーラー)は個人で、中位のもの(ハンドトラクター)は共同で所有し、大型乗用トラクターは、開拓農協で所有するようになりました。展示農具は、開墾鍬(かいこんぐわ)、平鍬(ひらぐわ)、まんのう、種まき、覆土機(ふくどき)、培土機(ばいどき)、人力稲刈り機、唐箕(とうみ)などが人力によるもので、馬の荷鞍、ハモ(馬具)、犂(スキ)は役馬が使用したものです。機械は、ホルダートラクター(ドイツ製)、ロビントラクター(日本製)が展示られております。このほか超大型収穫機(コンバイン)を使って麦の刈り取りを行っています。

出身地と生活習慣

鹿放ヶ丘開拓者の出身地は青森県から鹿児島県まで35都県の広範囲に及びます。その妻たちは、地元千葉県の人も20人いますが、開拓者の出身地及び開拓仲間の親類の人などが多く、全国にまたがっております。そのため、生活習慣の違い、特に言葉の違いにとまどいがありました。しかし、根底に同じ目的をもつ「仲間意識」「同期のさくら」的なものがあったので、共通の生活習慣やアクセントを残しながらの、“鹿放共通語”が生まれました。

鹿放ヶ丘の施設

①鹿放ヶ丘神社ふれあいセンターの敷地を無償で提供しているのが鹿放ヶ丘神社です。そのいわれは、次のように提示してあります。「この地は、昭和20年の太平洋戦争の終結により、満州開拓から内地開拓に転身した『満蒙開拓青少年義勇軍訓練所・基幹学校』の生徒を主体とする『鹿放ヶ丘開拓』の人々が、心の拠り所として創立した『宗教法人・鹿放ヶ丘神社』の境内地である。」正にそのとおりで、昭和30年に4.8㎡の社殿を建立し、昭和55年に30㎡の新社殿を新築して、落慶遷座祭を催行しました。主神は、五穀豊穣の神である豊受大神(とようけのおおかみ)であります。 ②納骨堂と個人墓地 入植(開拓)以来亡くなった人もあり、また、満州に渡って不帰となった多くの同志の霊を祀ると同時に、組合員の共同納骨の場として、昭和31年にドーム型の納骨堂を建立しました。その後保健所の許可を得て個人墓地を造成し、昭和41年に墓地護持会を設立しました。慰霊祭は、春と秋のお彼岸に護持会が主催で行っております。
③鹿放ヶ丘グランド 当開拓地の中央に位置し、農協の共有地であった原野を組合員の憩いの広場に開放し、野球場や運動場、お祭り広場としました。昭和35年に下志津自衛隊のブルドーザーでグランドを造成し、野球のネット、ベンチ、フェンス等を随時整備しました。昭和30年に植えた桜の木は、その後増殖して今では桜の名所の一つとなっております。なお、鹿放ヶ丘神社が宗教法人に許可されると同時に、農協から境内地として寄付されました。 ④開拓記念碑と顕彰碑 開拓25周年記念式典は、昭和45年11月に行いました。その記念行事に、開拓の業績を後世に伝えるものとして、「開拓25周年記念碑」を社殿前に建立しました。また、同じ神社境内地内に、開拓の指導者であった三先生のご功績をたたえるために、組合員及び有志によって「高井篤先生顕彰碑(昭和54年建立)」、「加倉井正先生歌碑(平成4年建立)」、「安達増三先生顕彰碑(平成7年建立)」が建てられました。 ⑤鹿放ヶ丘ふれあいセンター 鹿放ヶ丘農協は、平成4年1月に四街道市農協と合併したため、鹿放ヶ丘記念館を建設することについて市と協議を重ねた結果、平成6年3月に「四街道市鹿放ヶ丘ふれあいセンター条例」が制定され、平成7年3月に完成し同年4月より供用が開始されました。ふれあいセンター内には、開拓にかかわる資料室として当初の計画より広く設計され、開拓地の生活及び生産用具等が陳列されることになり、鹿放ヶ丘だけでなく周辺の関係者から数多くの資料が提供されました。